遡上自転車ツーリング 石井手用水
今回の遡上ツーリングは、折りたたみロードバイク(GIANT MR4r)で巡ります。
舞台は、鹿児島市の「石井手用水」です。
「遡上ツーリング」とは、「暗渠化されて地下を流れる川の川筋を、古地図、地形及び周辺の施設などから推理していく」という紳士の遊びです。
「石井手用水」とは、1806年に薩摩藩が手がけた、歴史のある用水路です。全長は約6.5km。
鹿児島市の甲突川中流から永吉、原良、西田、武、荒田まで水を引き、甲突川の治水や灌漑(新田開発)に利用しました。
そのほとんどが暗渠化され、実際の流れは見えません。
しかし、古地図や先人たちのレポートによれば、水路の流れは容易に特定できそうです。
今回は、折りたたみロードバイクで石井手用水をたどることにしました。
都市部での機動性という点では、バイクよりも自転車に利があります。
石井手用水の起点は、伊敷の飯山橋近くにある、甲突川からの取水堰跡。
ここから甲突川の水を引き入れて、下流の田畑まで水を引き、潤していました。
1992年、鹿児島に大雨による甚大な被害をもたらした8.6水害の際、取水堰は壊れてしまったようですが、取水堰の構成部分だった大きな石が今も付近に点在しています。
案内板には、石井手用水の全体説明と、暗渠化前に撮影された太鼓橋の写真がありました。
写真のとおり、道路から家に入る際に石井手用水を渡るための石橋が設けられているところが多くありました。
さっそく、石井手用水取水堰跡を出発します。
暗渠化された石井手用水は、ほぼ全区間を通じて、アスファルトではなく白いコンクリートが被せられて歩道化され、ところどころグレーチング(鉄柵)があります。
アスファルトである道路とは、色が区別されているため、このコンクリート部分が暗渠化された川だと一目でわかります。
梅ヶ淵観音を通り過ぎ、さらに南に進むと、石井手用水は小野で幸架木川に出ます。
ここには、水門が二ヶ所あり、ここで石井手用水の流量を調整しています。
石井手用水の上流側水門。
上の写真と同じ場所から反対側を撮影。
石井手用水の下流側水門。
たのかんさぁ(田の神様)と呼ばれる、五穀豊穣の守り神の石像もありました。
このような石像は鹿児島にはたくさんあります。
この後、石井手用水はトンネルを抜けます。
玉江橋近くには、水車館跡の石碑があります。
水車館では、石井手用水の流れを利用して水車の力で機織り機を動かし、綿布を織っていました。
現在は石碑が残るのみ。実際の場所はもう少し南の永吉公民館付近だったと言われています。
さらに南に進みます。
これまで暗渠だった石井手用水がわずかに顔を出します。
近くの民家の壁には、敷地から石井手用水へ排水する構造物の名残がありました。
廃線跡もそうですが、こういった遺構を見つけるのは宝探しのようで楽しいです。
沿岸には住宅からの排水管が多くあり、地下の石井手用水に直接流れる仕組みのようです。
さらに南下すると、太鼓橋の跡を発見!
取水堰跡の案内板に写っていた太鼓橋と同じもののように見えます。
この下を石井手用水が流れているわけです。
テンションが上がるのは私だけでしょうか。
永吉公民館付近。
水車館は、実際はこのあたりにあったと言われています。
「花岡屋敷」という島津家家臣の屋敷があったあたりを抜けていきます。
このあたりでは、白いコンクリートのスペースが広いことから、石井手用水がかなり広い幅をとっていたことがわかります。
鮎などがいて、近所の人が水泳をしていたとの話もあるので、当時は水質がよく、泳げる程度には広い場所があったのでしょう。
石井手用水の周りには、神社や、廃寺もいくつかあるようです。
民家の庭の下を、暗渠化された別の小川が流れ、石井手用水に合流していました。
さらに石井手用水をたどると、原良と薬師の境に、「かけごし」という地名が現れます。
ここは、南北を流れる石井手用水と、東西を流れる原良川が交わる場所で、2つの流れがかけあって越えていくことから、「かけごし(掛け越し)」という地名になったそうです。
いわば川と川の交差点です。
写真奥の信号機のある交差点が、かけごし交差点です。
写真にある自転車の真下を、奥に向かって石井手用水が流れています。
別の角度から。
この写真で見ると、左から右に石井手用水が、奥から手前に原良川がそれぞれ流れています。
どちらの川も暗渠化されており、ただの交差点になってしまっていますが、バス停の名称としてかけごしの地名は残っています。
ちなみに、原良川は、渋滞解消のため昭和の中頃に暗渠化され、交通量の多い道路となりました。
新上橋から鹿児島高校前を通り原良団地へと続く直線路の下に、原良川は今もなお流れています。
石井手用水は「かけごし」を越えて、薬師保育園、西田小学校あたりを進みます。
これまで、石井手用水は西田小学校のすぐ裏の道をまっすぐ流れていると思っていましたが、実際は西田小学校手前で右(写真右奥)に曲がり、その後左に曲がって常盤方面に向かっていました。
このあたりには西郷家の墓や薩英戦争の本陣跡などの史跡があります。
右折後、すぐに左折して常盤の県道に出る直前の部分、この写真の赤い歩道部分が暗渠化された石井手用水と思われます。
というのは、スクールゾーンの色分けとしてはあまりに区間が短く、ほかに同じような色分けがされている場所は近辺にはありませんでした。
したがって、石井手用水の暗渠化部分をなんらかの理由で色分けしたものだと思います。
石井手用水は常盤の県道に出て、西田方面(東)に流れを変えます。
すぐに信号機のある交差点に出て、写真手前から写真右奥に流れています。
ちなみに写真左奥をまっすぐ行くと、五大石橋の一つだった西田橋。
この交差点には、かつて「筋違橋(すすけばし)」という橋が架かっていました。
石井手用水の流れに対して、斜めに橋がかかっていたことがその名の由来です。
見えづらいですが、電柱の案内板にも「筋違橋」の名称が見えます。
ところで、この筋違橋を武岡方面に西に進むと「水上坂」と呼ばれる有名な坂がありますが、
このあたりにも湧水があり、その流れが東進して、筋違橋あたりで石井手用水と合流しているようです。
写真は、水上坂方面から筋違橋にて石井手用水に合流している小川 。
そこで、この流れの上流、水上坂方向に少し寄り道します。
ここにも太鼓橋と思われる橋の跡がありました。
石井手用水とは別の小川(暗渠化)にかかる橋です。
常盤の史跡の一つのようです。この太鼓橋跡が常盤から武岡に向かう道でもっとも狭い部分で、車同士がすれ違うことはできません。
別の角度から。写真手前から奥に暗渠化された川が流れています。
道路の両端にある石が橋の跡です。
すぐ近くには水神様も。このあたりに湧水があったことがうかがえます。
他にも、この道が江戸の昔から参勤交代に使われていたこともあり、いくつか史跡があります。
井戸でしょうか。ちょっとふたが空いていましたが、怖くて中は見られず笑
さて、石井手用水に戻りましょう。
筋違橋を越えてさらに進みます。
筋違橋を過ぎ、さらに進むと、すぐに道が2つに分岐。
実はここで、地下を潜る石井手用水も二手に分かれます。
写真右奥の南に向かう流れが、石井手用水の本流です。
他方で、写真左奥の東に向かい西田本通りと平行する流れは、蜷尻川(みなじりがわ)と呼ばれていたようです。
この川も今は暗渠化され、下の写真のとおり道路になっています。
最終的に、蜷尻川は、西田橋の南あたりで甲突川に合流しています。
西田橋の上から合流している様子は見ることができます。
分岐した石井手用水の本流に戻ります。
本流は、南に向かい、暗渠からわずかに顔をだします。
知らない人が見たらただの側溝ですが、これが江戸から続く由緒正しい川筋なのです。
またすぐに暗渠へ。
石井手用水はこの後、笑岳寺公園付近をとおり、建部神社(武岡トンネル)へと進みます。
古地図を見ると、おそらく大通り沿いを流れていると思います。
石井手用水は、武や荒田まで流れていたとのことですので、建部神社前交差点を越えてさらに南の方まで流れていたのでしょう。
鹿児島市民の広場の記事によると、武小学校の正門を過ぎて、荒田まで流れていたとのことです。
これ以上川筋をたどることは難しく、ここで調査は打ち切り。
お腹が空いたので、近くのラーメン屋へ。
平成31年鹿児島ラーメン王決定戦で堂々の3位、「麺屋剛」にて味噌とんこつを頂きました。
甘めの味噌、厚切りチャーシュー、うまし。
よくよく考えたら、今回の石井手用水は上流の取水堰から下流に向けて調べていったわけなので、「遡上」ではないですね。でもめんどうだから遡上ツーリングでいいや。